
【AFLフラッシュバック 80’s,90’s】第4回 80年代~90年代、最強を誇ったPort Adelaideと、AFL参入のゴタゴタ
2018年7月28日AFLフラッシュバック 80’s,90’s
1980年代、90年代にオーストラリアで幼少期、青年期を過ごした筆者が、VFL/AFLの逸話をご紹介します。
第1回 | 2017/10 | 超人気の州リーグ’VFL’から、全国リーグの’AFL’へ |
第2回 | 2017/11 | AFLでは、2世、3世プレーヤーは当たり前!(前編) |
第3回 | 2018/1 | AFLでは、2世、3世プレーヤーは当たり前!(後編) |
第4回 | 2018/1 | 80年代~90年代、最強を誇ったPort Adelaideと、AFL参入のゴタゴタ |
第5回 | 2018/7 | キック力は、世界標準!NFLでも通用した、AFL選手達 |
第6回 | 2019/9 | ミスターゲス不倫 Wayne CareyのFootball人生 |
第7回 | AFLのスタジアム事情 ~80年代、90年代のスタジアム探訪(前編)~ | |
第8回 | AFLのスタジアム事情~80年代、90年代のスタジアム探訪(後編)~ | |
第9回 | State of Origin の歴史 | |
第10回 | 80年代~90年代を彩った、スーパーフォワード |
旧VFLからそのまま参戦したヴィクトリア州のクラブ以外の『他州チーム(Non-Victorian Team』は、AFLの設立前後に新設された、所謂、『エクスパンション』クラブがほとんどだが、唯一の例外がSANFL(南オーストラリア州リーグ)から、そのままAFLに参戦したPort Adelaide だ。しかし、その参戦までの道のりは険しく、苦難の連続でもあった。
南オーストラリア州最古のプロ・フットボールクラブ
アデレード・シティの北に位置する、ポート・アデレードを中心に1870年に設立された、Port Adelaide Football Clubは、南オーストラリア州で最古のプロ・フットボールクラブであり、現在のAFLでも5番目の古さにあたる。なお、最古の現AFLクラブは、Melbourne(1850年)となり、Geelong(1859年)、Carlton(1864年)、North Melbourne(1869年)と続く。
1877年に、SANFLの前身に当たる、SAFA(South Australian Football Association)に参戦すると、1884年に初優勝を飾る。1930年代に3度の優勝を飾っているが、最初の黄金期は、1950年代に訪れる。West Adelaideから移籍してきた、名Rover、Foster Williamsがコーチ兼キャプテンに就任すると、”Fos” Williamsに率いられたクラブは、1954年~1959年の間に6連覇を達成する。
そして、第2の黄金期は、AFLが設立された、1980年代~1990年代という激動の時代に訪れる。John Cahil (後のAFL / Port Adelaideの初代コーチ)に率いられ、20年間で、9度の優勝を飾るこになる。
1950年代、コーチ兼キャプテンとして活躍したFoster Neil “Fos” Williams(左)と、80年代~90年代にクラブに黄金期をもたらした、John Cahil(右)
80年代~90年代の黄金期を支えた”Magpies”の分厚い選手層
1980年代といえば、当時、VFL(後のAFL)が高いサラリーを武器に、オーストラリア全土から選手を引き抜いていた時代であったが、第2の黄金期を迎えていたPort Adelaide “Magpies”の選手達も、当然そのターゲットとなっていた。
最初に狙われたのは、伝説の”Fos” Williamsのジュニアとして、SANFLのスター選手としての地位を築き始めたばかりのMark Williams。1981年に、VFLの人気クラブ、Collingwood に引き抜かれるとと、瞬く間にクラブのCentremanとして活躍。その後、Brisbaneに移籍し、VFLで計201 試合に出場することになる。
Port AdelaideのBest & Fairest(クラブMVP)を、3度受賞していた、Craig Bradleyも、1986年にCarltonにリクルートされ、VFL/AFLへ旅立っていった選手の一人だった。Bradleyは、Carltonの1987年と1995年の優勝に貢献すると、その後、375試合に出場し、38歳となった2002年に、アデレードに戻ることなく、長い選手生活にピリオドを打つ。
1986年にMagery Medal(SANFLのリーグMVP)を受賞した、名WingのGreg Andersonも、1987年に、Essendonに入団し、VFLの門戸を叩く。”Bombers”の主力して103試合に出場すると、1993年に、AFL / Adelaide Crowsと契約し、AFL選手でいながら、アデレードに帰還することになる。
1980年代 Port Adelaideの代表的な”輸出品” Mark Williams(左)、Craig Bradley(中央)、Greg Anderson(右)
その後も、Essendonでプレーし、1993年のAFL Brownlow Medalを獲得したGavin Wanganeen、AFL(Adelaide Crows)では大きな成功を収めることはなかったが、Port Adelaideの1990年シーズンに153ゴールでKen Farmer Medal(SANFLのリーグ得点王)に輝き、キャリア・トータルで671ゴールを記録した、Scott Hodgesと『輸出』は続く。その中でも、最もAFLで成功を収めたのは、現Collinwoodのコーチで、1990年代~2000年代、AFLを代表するRuck Roverとして活躍した、Nathan Bucklyで間違いないだろう。
1991年、19歳でPort AdelaideでデビューしたBucklyは、翌年の1992年には、早くも主力として活躍し、Port Adelaideを優勝に導く。Magery Medal、Jack Oatey Medal(SANFL Grand FinalのMVP)等、リーグの各賞を総なめにすると、AFL / Brisbane Bears(現Lions)にドラフトされ、AFLに参戦する。その後、複数トレードでCollingwoodへ移籍すると、1999年からクラブのキャプテンに就任し、7度のAll Australian、Brownlow Medal(2003年)、Norm Smith Medal(2002年)と、輝かしい実績で、AFLの顔として活躍。2007年シーズンをもって引退後は、2012年にCollingwoodのコーチに就任し、中々結果はでないものの、AFLの人気クラブの指揮官として活躍している。
Port Adelaideの1992年シーズンにSANFLの各賞を総なめにしたNathan Buckly(左)は、AFLの注目銘柄として鳴り物入りでDraftされ、Brisbane、Colllingwoodで活躍(中央) 現在は、人気クラブColliingwoodの悩めるコーチ(右)として、2019年までクラブと契約を結んでいる
1990年 オフシーズンのゴタゴタ
1990年、全国リーグとなった『AFL』に興行面で遅れをとっていた、SANFLでは、ほとんどのクラブが慢性的な赤字状態となっていた。西オーストラリア州リーグ(WAFL)が、West Cost Eaglesを1987年を参入させ、AFLとの共存を早くも図っていたのとは対照的に、SANFLは、AFLへの参入を中々決めきれず、1993年まで結論を先送りすることなった。そんな中、スター選手を次々とAFLへ引き抜かれ、長らく危機感を募らせ続けていたPort Adelaideが、SANFLの方針に業を煮やし動くことになる。
1990年のオフシーズン、クラブはSANFLの許可を得ず、AFLと秘密裏に協議し、AFLライセンス取得に成功。同時に、1991年シーズンからSANFLを脱退し、AFLへの単独参戦を発表する。この裏切りとも言える行為に、当然、SANFLと各クラブは反発することとなると同時に、このニュースは、南オーストラリア州全土に衝撃を与えることとなる。当然、SANFLは、単独ライセンスをPort Adelaideに与えたAFLに抗議。その後、AFL、SANFL、Port Adelaideを交えた話し合いは続き、折衷案として、急遽、Port Adelaideの単独参戦ではなく、南オーストラリア州の新規(Expansion)チームとしてAdelaide Crowsを参戦させることで落ち着く。
1990年 Port Adelaide 単独参入のニュースは、南オーストラリア州全土を駆け巡ることとなる
念願のAFL参戦、そして。。制覇!
1991年、SANFLの各クラブの主力を中心に、急遽設立されたAdelaide CrowsのAFL参戦で、アデレードだけでなく、南オーストラリア州全土が、しばらく『AFLバブル』に酔いしれることなる。その圧倒的なマーク力と甘いルックスで、一気にアデレードのスターとなったCrowsの若きフル・フォワード Tony Modraは、『アデレードのバーでゆっくり飲むこともできない。。』と漏らすほど、アデレードっ子は、熱狂していた。
そんな喧騒の中、Port Adelaideは、いったん立ち消えとなっていたAFLへの参戦を諦めていたわけではなく、その後も粘り強く交渉を続けていた。そして、1997年、アデレード(南オーストラリア州)第2のクラブとして、念願のAFLへの参戦が認められた。愛称の”Magpies”は、Collingwoodで既に使用されていた為、Port Adelaide “Powers”として参戦することとなる(Magpiesは、SANFLでの二軍チームで引き続き使用)。コーチは、John Cahil、キャプテンには、Esssendonから帰還した、Gavin Wanganeenが就任することなる。AFL参戦直後は中々結果は出なかったものの、1999年にコーチに就任したMark Williamsのもと、徐々に力をつけたPort Adelaideは、2004年にBrisbane LionsをGrand Finalで破り、AFL参戦8年目に、初優勝を遂げる。州リーグ(SANFL)の一クラブからスタートし、その後黄金期を迎えつつスター選手を次々と引き抜かれ、AFLへの参入問題を経て、ようやく掴んだ『全国制覇』は、アデレードっ子の間でも、苦難の物語として、今後語り継がれていくのではないだろうか。
Port Adelaideのキャプテンとしてアデレードに帰還した、アボリジニ選手初のBrownlow メダリスト Gavin Wanganeen (左)と 2004年にAFL制覇を成し遂げた、コーチのMark Williams(右)
筆者紹介
宮坂 英樹
1972年7月1日生まれ。父親の仕事の関係で、オーストラリア・メルボルンで、幼少期を過ごす。1994年に、VAFA(Victoria Amateur Football Association) 3部リーグでプレー。国内では、Eastern Hawks等でプレーし、2007年現役引退。現一般社団法人日本オーストラリアンフットボール協会会長。